私の手許に、大阪医科大学仁泉ラガークラブ60周年記念誌があります。大阪医科大学ラグビー部は昭和6年に創部され、私も昭和47年から、昭和53年まで勉強は勿論、ラグビーに打ち込みました。今となっては、よく体力が持ったなと思いますが、やはり二度と戻らないあの若さでしょうか。
ところでその記念誌を開いたら、昭和6年の試合後の記念写真が掲載されています。その中に、母の叔父も写っています。彼は旧制天王寺中学から大阪医科大学の前身である大阪高等医専に進学しました。中学時代は陸上競技の槍投げの選手だったそうです。多分創部当時ラグビー部のメンバーも不足し、天王寺中学出身だという事で、ウィングあたりで駆り出されたのでしょう。
彼は卒業後大阪の病院で勤務し、その時まだ小さかった母をかわいがってくれたそうです。戦争が始まってからは、新婚早々でしたが、軍医として旧満州へ出征しました。戦後シベリヤに抑留され、収容所で流行した赤痢の患者さんの治療に忙殺されるうち、自身も赤痢に罹り、死亡してしまいました。新婚の妻には、彼が使っていた聴診器が戻ってきただけでした。その奥さんも他の人と再婚され、その叔父の存在は、記念誌で偲ぶしかありません。しかし母や私が居なくなれば、その様な記憶も、彼が命をかけて病気の人たちを治療した事も、風化していく事でしょう。戦争はこのような悲劇を沢山残していきます。
この様な事に目を瞑り、国家のために命を投げ出せ、男になれと教育するのが美しい国の新しい教育基本法であるならば、私たちは大きな声でノンを言わなければなりません。
白 江 医 院 白江 淳郎
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